金田一博士の事件簿
概要
かつて北海道余市町で見つかった岩面彫刻は、金田一京助によって偽物と断定されたが、その後の調査によって実は1500年以上前の遺跡であることがわかった。 しかし時すでに遅く、保全されなかった彫刻は風化して消えてしまった。 どうしてこんなことになったのか? この記事では当時の文献を紐解いて、金田一京助による偽作説の捏造を主張する。
導入
今から99年前の1927年10月8日に、北海道余市町の海岸で土木作業をしていた人が、岩に彫られた不思議な模様を発見した(図1)。 その模様は棒人間にも文字にも見えた。 当然気になるのは、誰がいつ、何のためにこれを彫ったのか、ということだ。 しかし岩に刻まれた溝から年代を推定するのは非常に困難で、旧石器時代のものであるとかアイヌ以前のコロボックルのものであるとか色々推測されていた。 また描かれている内容についても、呪術のための絵だったり失われた古代文字だったり様々な説があった。 特にアイヌ民族は文字を持たないということになっているので、もしこれが幻のアイヌ文字なのであれば世紀の大発見である。 ここで当代きってのアイヌ語学者である金田一京助は、発見から3年後の1930年に驚くべきことを発表した。
「この彫刻は知人のアイヌが近年作ったニセモノである。」
金田一京助の発表が原因かはわからないが、その後この彫刻は大した保全措置もされず、風化して再び土に埋もれてしまった。 これで遺跡は幻となったかに思われた。
画像の出典: 参考文献1
しかし物語はこれで終わらなかった。 1950年になって、例の彫刻のすぐそばで土に埋もれた洞窟が見つかった。 その洞窟を発掘すると、例の棒人間のような彫刻が壁一面に刻まれていた(図2)。 前回の彫刻と違ったのは、発掘の過程で土器や骨など様々な遺物が出土したという点だ。 このため洞窟の使用時期が続縄文時代(西暦500年ごろ)と確定した。 つまり遺跡は本物だった。 この洞窟はフゴッペ洞窟と名付けられ、壁面の彫刻は今でも展示されている。
ここに大きな謎がある。 新彫刻と旧彫刻がわずか12メートルしか離れていないことと、互いによく似ていることから、二つの彫刻の真贋は一致するだろう。 つまり旧彫刻がニセモノだというならフゴッペ洞窟の新彫刻もニセモノとするのが当然だ。 しかしフゴッペ洞窟はプロの研究者チームによる検証を経て、考古学的にも地質学的にも続縄文時代の遺跡だと断定されている。 後で説明するように、フゴッペ洞窟に最近彫刻を作ってから土を被せるのもほぼ不可能だ。 僕には3つの可能性が考えられる。
- 新彫刻と旧彫刻は本物で、「知人のアイヌ」が自分で作ったという嘘をついて、金田一京助はそれに騙された。
- 新彫刻と旧彫刻は本物で、金田一京助が「知人のアイヌ」をでっちあげた。
- 新彫刻と旧彫刻はニセモノで、洞窟の発掘者が嘘をついている。
どれが正しいのか、それとも全て違うのか? いずれにせよすごく魅力的な問題だ。 岩に刻まれた線という動かぬ証拠は、雄弁なようで実は寡黙ということですね。
状況の詳細
上の導入ではいくつか省略した点があるのでここで補足する。
まず、彫刻を伴う洞窟は日本にたった二つしかない。 北海道余市町のフゴッペ洞窟と小樽市の手宮洞窟だ。 こんなに希少なのに例えばラスコー洞窟壁画と比べて国内での知名度は劣るし、上述のミステリーは輪をかけて知られていない。 この記事を書こうと思ったきっかけもそこにある。
次に、旧フゴッペ彫刻が発見される前の1866年(あるいは1878年)に、すでに手宮洞窟が発見されていた。 当時から手宮洞窟に彫刻があることが確認されていたが、遺物が散逸してしまっていたので、旧フゴッペ彫刻と同様に偽刻説を唱える人もいた。 というよりむしろ手宮洞窟の偽刻説が1878年から存在して、旧フゴッペ彫刻もそれに影響され、1950年のフゴッペ洞窟発見で疑惑が晴れたという経緯のようだ。 つまり旧フゴッペ彫刻の偽刻説は手宮洞窟と一体に考えるべきものだけど、この記事では旧フゴッペ彫刻だけに注目しても議論が成立すると考えて、簡単のため省略した。
それでは文献を調べることで、上述の三つの可能性のどれが正しいのか考えよう。
新彫刻は本物である
上で一応三つの可能性を挙げたが、三つ目の新彫刻ニセモノ説はほとんどあり得ないと言っていいと思う。 以下にその理由を説明する。
1970年出版の発掘報告書と2003年出版の研究成果報告書を読むと、記述と分析がかなり入念に行われていることがわかる。
例えば数百点の土器の破片を検討して、後北式土器の中に系統づけられることを確認している。
そしてそれは洞窟の形成時期と矛盾しない。
地質学的な証拠から、この洞窟は海食によって紀元前後に生じ、その後数百年経って洞窟内部が利用可能になったと考えられている。
これは炭素年代測定の結果とも一致する。
また、(壁面から剥がれたと思われる)彫刻を伴う破片が地層中に散在していたことから、その層が堆積した時期にすでに彫刻が存在していたとわかる。
(本題からは逸れるが、彫刻のついた破片がひとかたまりになっていないことと、そのうち一つの裏面が何かを磨くのに使われていたことから、土器を残した洞窟の使用者は彫刻を残した人間と異なる文化だったと考察されている。
したがって紀元前後に洞窟が形成されてから彫刻が作られ、その後住人が入れ替わり西暦500年ごろに土器が作られた、ということになる。
これが正しいか僕には判断できないが、素晴らしい推理だと思った。)
加えて、北東アジアのアムール川流域にも同様の遺跡が残されていることから、地理的な連続性も裏付けられている。
以上のような一貫した結果を後から作り出すのは非常に困難だし、大人数の研究者がグルになって嘘をつくのはもっとあり得ないと思う。 したがってフゴッペ洞窟の新彫刻は本物だと思う。
というわけで残った可能性は次の二つ。 金田一京助がでっち上げたのか、それとも知人のアイヌに騙されたのか。 僕の見解は前者だ。 この結論に至った経緯はいよいよ複雑なので、順を追って説明する。
金田一京助が嘘をついている
金田一が初めて旧フゴッペ彫刻に言及したのは、1930年の人類学雑誌に発表した「アイヌのイトㇰパの問題」においてである。 この論文の中で彼はまず数ヶ月前に同じ雑誌で発表された特定の論文を徹底的にこき下ろしている。 次に手宮洞窟の偽刻説に賛同して、最後に1927年に見つかった旧フゴッペ彫刻の偽刻説も主張している。
その内容は次のとおり。
- 中里徳治というアイヌの青年が子供の時にフゴッペの岩壁にイタズラで彫刻をした
- 1927年の彫刻発見時の新聞報道を見て、余市に住むアイヌの青年達は中里が作ったとわかっているので大笑いだった
- その会話は違星梅太郎というアイヌ青年の家で交わされた
「彫刻発見時の新聞報道」とは、おそらく1927年11月14日から21日にかけて記者と西田彰三が小樽新聞に連載した記事のこと。 つまり金田一の主張が本当なら、余市のアイヌ青年たちは1927年11月21日の時点で中里が作ったという真相を知っていたはずだ。 しかしこれを否定する証拠がある。 違星梅太郎の弟、違星北斗の記事だ。
違星北斗は余市出身のアイヌの歌人であり、東京で金田一京助と出会ってからアイヌ学者との関わりが深かった。 そんな彼は1927年12月19日から翌年1月10日にかけて、旧フゴッペ彫刻に関して彼の見解を小樽新聞上で連載した。 その内容をかいつまむと、アイヌはいたずら書きをしないので彫刻はかつてその地に住んでいたコロボックル(クルプンウンクル)のものではないかという説と、刻面があまり風化していないので新しい年代のものかもしれないという説を述べている。 重要なのは彼の主張の真偽ではなく、全6回にわたる彼の連載の中で中里が偽刻したという話は出てこないという点だ。
もし金田一の言う通りに余市アイヌの間で偽刻説が常識だったのなら、当時余市に住んでいた違星北斗も知っていたはずで、それを彼の記事で触れないわけがない。 よしんば違星北斗が知らずに連載を始めてしまったとしても、例えば彼の兄に偽刻の件を教えてもらえるはずなので、連載の途中で修正されるだろう。 ついでに中里がいたずら書きしたという金田一の説は違星北斗のアイヌの説明と食い違っている。
ここから導かれる結論は、1927年の時点で偽刻は常識だったという金田一の主張は捏造であるということだ。 この時系列は複雑なので図にまとめた。 論理的には金田一の説が真実で違星北斗が知らないふりをしたという場合も想定できるが、違星が発見直後なのに対し金田一が3年後の発表であること、金田一は事実をよく確認せずに原稿を書いていると思われること、アイヌはいたずら書きをしない旨を違星がかなり強調していることと、全体的な原稿のトーンから、違星は嘘をついてないと判断した。
さらに恐ろしい事実もある。 コロボックル説を唱えた違星北斗と偽刻の実行犯とされた中里徳治は、1929年に相次いで早逝している。 悪意を持った想像をすれば、アイヌ文化は文字を持たないという定説を守りたかった金田一が、死人に口なしと判断して1930年に初めて(捏造の)偽刻説を発表したという仮説も考えられる。 あるいは単に何かの記憶違いで1930年の論文を書いてしまったという説明もできる。 これを検証するのは不可能だろう。
終わりに
しばらく前の余市旅行でなんとなくフゴッペ洞窟に行って、資料館においてあった報告書を読んで、旧フゴッペ彫刻と金田一の偽刻説を知った。 調べるうちに奇妙に感じたのは、1950年の新彫刻発見以降は金田一の誤りが明らかであるにもかかわらず、それを明示的に指摘した文献がないということだ。 というわけでこの記事が、金田一の偽刻説が(中里の嘘ではなく)金田一の捏造であることを主張する、知る限り初めての文章だ。 金田一博士が事件を解決するのではなく事件を引き起こしていたとは。 彼は僕の小学校と高校の先輩なので、ちょっと残念に思う。
参考文献
- 小川勝 編「フゴッペ洞窟・岩面刻画の総合的研究」中央公論美術出版、2003年
- フゴッペ洞窟調査団 編「フゴッペ洞窟」ニュー・サイエンス社、1970年
- 余市町 編「史跡フゴッペ洞窟保存工事報告」1973年
- 金田一京助「アイヌのイトㇰパの問題」人類學雜誌第45巻第4号、1930年
- 「神秘を語る古代文字と謎を刻むマスク」小樽新聞、1927年11月14日
- 西田彰三「フゴツペの古代文字並にマスクについて」小樽新聞、1927年11月15日から21日まで
- 西田彰三「再びフゴツペ 古代文字と石偶に就て」小樽新聞、1927年12月2日、4日から7日まで
- 違星北斗「疑ふべきフゴツペの洞窟」小樽新聞、1927年12月19日、25日、30日、翌年1月5日、8日、10日
- 西田彰三「畚部古代文字と砦址並に環状石籬」小樽新聞、1928年7月25日から28日、31日、8月2日、4日から7日
- 金田一京助「手宮の古代文字」毎日新聞、1954年9月1日
- 名取武光「手宮の古代彫刻」毎日新聞、1954年9月21日
- 地球ことば村「手宮の古代文字」2026年1月22日閲覧
手に入らなかった文献
- 1929年夏に九州と北海道の若い学徒が北海道の新聞に発表した記事。これは僕の知る限り金田一京助だけが「アイヌのイトㇰパの問題」の中でのみ言及している。
- 関場不二彦、「手宮土壁の所謂古代文字」